雑誌広告の変遷 その3
秋も闌(たけなわ)となりましたね。
結核に罹った者は薬がなくて先ず助からぬとした時代でありましたが、強運にも花森安治は生き残り、除隊後の昭和16年には帝国大学新聞時代の先輩から誘われて軍部が主催する大政翼賛会の外郭団体に籍を置くことになり、敗戦まで国策広告に携わりました。
1941年に実施された「翼賛選挙」のポスターの企画をしたり、1942年には戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定したりしたのです。
因みに当時の代表的なキャッチコピー「欲しがりません勝つまでは」は花森が「考案」したものと屡々言われますが、これは事実ではなく大政翼賛会・読売新聞社・東京日日新聞社・朝日新聞社による「国民決意の標語」の募集に、東京在住の男性が小学生の娘の名前で応募した作品を花森が選定・採用したものでした。
この点に関して戦後花森は「暮しの手帖」で「男は言い訳をするな」と書き一切の弁明をしませんでした。他に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」といったスローガンも花森が選定しています。
戦争が終わった1946年には編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に彼は「衣裳研究所」を設立し、遂に雑誌『スタイルブック』を創刊したのでした。そして1948年に、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊しました。
1951年には暮しの手帖社と改称し『暮しの手帖』は生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌であり、中立性を守るという立場から「他企業の広告を一切載せない」という理念の許に今日まで発行されて居ます。
編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死ぬ2日前まで第一線で編集に当たったのでした(゜o゜;/。
尚「暮しの手帖」の表紙画は、創刊号から死の直前に発行された152冊まで、全て花森の手によるものでありました🤬/。

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