雑誌広告の変遷 その2

暑かった9月も1月が改まると急激に秋の気配が色濃くなりましたね。


花森安治は明治44年神戸市に生まれ、旧制兵庫県立第三神戸中学校(現長田高校)から旧制松江高等学校東を経て東京帝国大学に進みましたが、高校時代に校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者のスタートでした。


昭和8年東京帝国大学文学部に入学し、当時6万部も発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わりました。彼は私の母と同年生まれであリ、私は大正12年の大震災から昭和一桁の時代が日本人の最も貧しい時代であったと母から耳がタコになるほど聞かされて居ましたから、彼はきっと裕福な家庭に育った人なんだと思ったものです。


彼は東京帝国大学在学中でありながら昭和10年に伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わりました(゜o゜;/。
昭和5年に手がけた化粧品広告には既に手書き文字で顧客に語りかけて、その後の「暮しの手帖」を誌面のキーともなった個性的なスタイルを確立させています。就職により生活の目途が立ち、彼は学生の身分を維持したまま結婚しました(゜o゜;。

1937年25歳で東京帝国大学を漸く卒業し、卒業論文の題目は、「社会学的美学の立場から見た衣粧」であった(「衣粧」は、「衣裳」と「化粧」を合成した言葉であり、花森による造語)4月には長女が誕生しました。
同年徴兵検査を受けて甲種合格となり、秋に赤紙が届き支那事変に応召したのでした。
大日本帝国陸軍に入隊後新兵教育を受け、北満州の部隊に配属されましたが1938年2月結核に冒されたため満州の陸軍病院に入院し、病状が良くならなかったため、幸運にも内地に戻され和歌山県の陸軍病院で療養生活を送りました。その後1940年に疾病を理由として除隊になった後に大政翼賛会において国策広告に関与することになったのです。
宿痾の病が幸運にも彼を戦争犠牲者から救ったのでした。

次回に続く…

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