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江夏の21球

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これは山際順二による40数年も前の短編ノンフィクション作品のタイトルです。ご年配の野球フアンの方には未だご記憶の方が多いと思います。 46年前の昭和54年度プロ野球日本シリーズは、セ・リーグを優勝二度目の広島カープとパ・リーグ初優勝の近鉄バファローズの間で行われました。 戦後設立してから万年最下位を続けていた両チーマが奇しくも日本一を競うシリーズでぶつかることになります。どちらが優勝してもはじめての日本一です。 まず近鉄が大阪球場(*)での初戦、第2戦を連勝しました。一方の広島は、広島球場に戻った第3戦、第4戦、第5戦を勝って日本一への王手を掛けます。 再び大阪球場に戻った第6戦は、近鉄が序盤から広島の池谷投手を打ち込み、広島の反撃を9回の山本浩二のソロホームランだけに抑えた近鉄井本投手が完投して逆王手を掛けます。 ともに三勝三敗で迎えた第7戦(最終戦)も大阪球場で開催され、全国のプロ野球ファンは、球場やテレビ、ラジオの前で固唾を呑んで見守りました。 6回裏まで広島が有利にゲームをすすめて、4-3でリードを奪っていました。そして、7回裏から今期南海から移籍して5勝25セーブを挙げた守護神の左腕投手江夏豊をマウンドに送ります。 そして4-3で広島リードのまま遂に9回裏、近鉄の最後の攻撃を迎えました。近鉄は先頭打者の羽田がセンター前ヒットから悪送球で3塁に進みます。続くアーノルドもフォアボールを選び、無死一、三塁と疲れの見えた江夏を攻め立てます。 そこで広島ベンチは次打者を敬遠し無死満塁とします。絶好の逆転日本一のチャンスが到来し、近鉄西本監督の采配が期待されました。 しかし、此処からがベテラン江夏の真骨頂でした。まずヤクルトから助っ人マニエルが移籍したためにベンチを温めていた佐々木恭介(前年の首位打者)が右の代打として登場します。左腕投手対右の強打者では右打席の佐々木が有利のはずでした。しかし、江夏の前に三振に倒れます。佐々木は2球目に見逃した甘い球を一生後悔することになります。 一死満塁で迎える打者石渡茂は、シーズン打率.280で何でも出来る多才な好選手でした。ところが、江夏は西本監督から送られたスクイズのサインを瞬時に見破ります。ノーサインで投球を外角に大きく外しバントの空振りとなり、突進した三塁走者の代走藤瀬を広島...

月見草の不思議

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あっという間に夕暮れが早くなり後5日で10月が終わろうとしています。先週は若い(といっても70歳)知人の手助けを受けながら雑草だらけの庭の草引きをして、南の庭の一角に一本だけ生えて居た1メートル余りの月見草の枯れ木を伐採して種を採取し新たに播種しました^^。 此の花は正しくは「待宵草」と言ってアカバナ科の多年草である帰化植物です。もともと南アメリカ原産の植物で日本を含む世界中で繁殖します。 よく似た草花に、セイタカアワダチソウがあります。成長が早く栄養分を多く吸収するため土壌の栄養が奪われ、他の植物が育ち難くなるという問題もあって、日本では「特定外来生物に関する法律」に基づき、外来生物としてその繁殖が制限され、現状「背高粟立ち草」は特定外来生物として駆除の対象となって居るのですが発見された場合、自治体や地域の管理者が駆除活動を行い、その繁殖を防ぐための取り組みとなって居ます。 然し我が国の怠惰で不勉強なお役人は自ら条例を理解し護ろうとする努力などせず、そんな条例の存在すら知らない連中が殆どであるようです。 月見草の方は、よく通り掛かりの方から「綺麗だね^^」と声をかけて下さったり、夕暮れが訪れる開花時にはハッキリと目に見える速度でワンツースリーと花びらが開くので幸運にも通り掛かって開花を目にされた方は誰もが目を見張り、口を開けて驚く様を私は幾度も目にしてきたので今でも此の花を毎年植え続けて居ます。 「花びらが開く処を肉眼で見られる花なんて他にあるのかしら?」…。 我が家の庭では毎年一本の苗が場所を変えて必ず毎年咲き誇っているのです^0^/。一度プランターに植え替えたことがありましたが根っこの力が強くてプランターが裂けたのには魂消ましたよ🤬/。 タネは2ミリ位の小さいタネを無数に取ってありますから、植えてみたい方はどうぞ本欄にご連絡下さいね。

散髪代の不条理

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11月が間近くなり、暑かった夏も漸くその姿を少し宛消し、てとうとう待ちに待った秋の訪れとなりましたね^^。 何時しか肥満は体に悪いとの風潮が世間に浸透し、男女ともに健康への願望と美醜への拘りのために誰もが痩身を望む昨今ですが、誰もが食べ物に飢えていた今から70年も前である昭和25年(日本高度成長期の発端とされる朝鮮事変当時)当時の新聞広告を見ると、現在とは全く異なります。 先ず肥えるために飲むことを奨励した「養命酒」の「痩せた身体が肥りだす」コピーが特段に目立ちました。 当時は食糧事情のせいで誰もが痩せぽっちだった私達日本人でしたが、恐らく原因は第二次世界大戦後、貧しくなった日本人全てが飢えた生活を送って居たせいで痩せた方が多かったのが原因であろうと思いました。 その後の時代の推移にて広告はテレビ、自動車、冷蔵庫、やがてはゴルフ用具と続きましたが、当時から現在まで一貫して変わらず掲載された広告は女性の化粧品でも車でもなく意外や意外「紫電改」や「加美乃素」など男性の薄毛対策商品だったのです!。 然し生れつき頭髪の薄い私には全く同感であって、若い頃から「紫電改」や「加美乃素」等高価な養毛剤を幾度も試しましたが、効果が認められたことは一度ももありません。 加齢と共に毛髪がどんどん減少するばかりで今では僅かの白髪がヒラヒラと数十本風に戦ぐ葦の如く寂しい毎日を送って居ります。 それでも毎月一回の散髪代3千円は毛髪量に比例されないため一般男性に比しメチャ割高で頭一つで決められた不条理な基準からどうしても逃れられません。 毛髪の何倍(何十倍)も多い若い方たちと料金が同じであることはとても悔しいと思います🤬/。 今週の読めそうで読めない字    風に(戦ぐ)

雑誌広告の変遷 その5(完)

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戦後間もない昭和昭和23年9月に季刊『美しい暮しの手帖』として(第1世紀)第1号が創刊されました^^。 昭和28年12月の第22号から雑誌名を現在の『暮しの手帖』と改題され現在も発売され多くの女性の生活の指針を与えて居ます。 他の新聞や雑誌は諸経費の全てを新聞に掲載する広告に頼って居ますが、此の雑誌には「広告を載せると広告主に阿り、挙げ句は読者を欺く記事を載せることになるだろうから…」、と当初から一貫してどの紙面にも商業広告を排除して読者のために日常生活の節約と向上を願った記事に徹しましたから、会社は少しも儲からなかったけれど戦後の家庭の主婦から大いに支持されたのでした。 謂わばお金儲けのための雑誌ではなく貧しい家庭の主婦達女性が少ないお金を遣り繰りして生活できる知恵を誌面に繰り広げて家庭の子女の手助けが花森安治の心情であったと思います。 お金には目をくれず庶民の生活の味方に徹した彼は素晴らしい編集者でしたね(゜o゜;/。 此のように何時しか誰もが耳で聞き目で読まれるようになった「暮しの手帖」でありましたが、学問の世界では混乱を生じ、6年生で覚える「暮」は「暮らし」と送リますから、花森安治の雑誌の名代は「暮らし」であっても何故か送り仮名が「暮し」と「ら」が省かれて居ます。 漢字辞典を繰ると明らかに「暮らし」と送られて居ますから此の表紙の「暮し」は誤りであることが分かりますが花森安治は自己の信念に基づいて「暮し…」に拘ったのは彼の哲学であり個性であったと思いましたが、或いは表紙が冗長になるのを避けてのことだったかも知れませんね。 然しお母さんの傍らに置かれた此の雑誌を横目で見ていた多くの小学生や中学生が「暮らし」の正しい熟語を誤ったことは想像に難くありません。 此の字を「暮し」と書き誤って有名中学校の受験に失敗した生徒が居なかったことを私は祈るばかりですm(__)m。 彼にしてみれば表紙の文字は文字ではなく符丁に過ぎなかったのではないでしょうか? 

雑誌広告の変遷 その4

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花森安治は1949年から、彼は大日本麦酒の会社分割で発足した朝日麦酒広報部(現アサヒビール)の要請によって同社の広告クリエイターとして勤務し、アサヒビールのキャッチコピーからデザイン、レイアウトを一手に引き受け、「一番うまいアサヒビール」や「ビールといえば吾妻橋」などのキャッチコピーを次々に世に送り出し世間から瞠目されました。 そして1972年には著書『一銭五厘の旗』で第23回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞し、また同年『暮しの手帖』の活動によりラモン・マグサイサイ賞を受賞しています。 然し、彼は絶好調の中を1978年、突然心筋梗塞により逝去されました。花森追悼号となった『暮しの手帖』第2世紀53号の表紙画には、花森が描いた予備の絵が使われたのでした。 花森安治は、男の癖に何故かズボンを履かず何処へ出掛けるときも家に居るときもスカートを履いていたので誰からも奇異の目で見られ、男色ではないか?と可成り変人扱いされました。(゜o゜;。 彼は有名人でありましたから年輩の方はきっとご記憶されて居ることと思いますが、当人はスカートの方が生活に快適だと一向に気にしないメチャ変わった自由人だったのです(゜o゜;/。 次回へ続く…

雑誌広告の変遷 その3

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秋も闌(たけなわ)となりましたね。 結核に罹った者は薬がなくて先ず助からぬとした時代でありましたが、強運にも花森安治は生き残り、除隊後の昭和16年には帝国大学新聞時代の先輩から誘われて軍部が主催する大政翼賛会の外郭団体に籍を置くことになり、敗戦まで国策広告に携わりました。 1941年に実施された「翼賛選挙」のポスターの企画をしたり、1942年には戦意高揚のために「進め、一億火の玉だ!屠れ!米英我らの敵だ」といったスローガンを選定したりしたのです。 因みに当時の代表的なキャッチコピー「欲しがりません勝つまでは」は花森が「考案」したものと屡々言われますが、これは事実ではなく大政翼賛会・読売新聞社・東京日日新聞社・朝日新聞社による「国民決意の標語」の募集に、東京在住の男性が小学生の娘の名前で応募した作品を花森が選定・採用したものでした。 この点に関して戦後花森は「暮しの手帖」で「男は言い訳をするな」と書き一切の弁明をしませんでした。他に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」といったスローガンも花森が選定しています。 戦争が終わった1946年には編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に彼は「衣裳研究所」を設立し、遂に雑誌『スタイルブック』を創刊したのでした。そして1948年に、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊しました。 1951年には暮しの手帖社と改称し『暮しの手帖』は生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌であり、中立性を守るという立場から「他企業の広告を一切載せない」という理念の許に今日まで発行されて居ます。 編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死ぬ2日前まで第一線で編集に当たったのでした(゜o゜;/。 尚「暮しの手帖」の表紙画は、創刊号から死の直前に発行された152冊まで、全て花森の手によるものでありました🤬/。

雑誌広告の変遷 その2

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暑かった9月も1月が改まると急激に秋の気配が色濃くなりましたね。 花森安治は明治44年神戸市に生まれ、旧制兵庫県立第三神戸中学校(現長田高校)から旧制松江高等学校東を経て東京帝国大学に進みましたが、高校時代に校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者のスタートでした。 昭和8年東京帝国大学文学部に入学し、当時6万部も発行していた「帝国大学新聞」(東京大学の学生新聞「東京大学新聞」の前身)の編集に携わりました。彼は私の母と同年生まれであリ、私は大正12年の大震災から昭和一桁の時代が日本人の最も貧しい時代であったと母から耳がタコになるほど聞かされて居ましたから、彼はきっと裕福な家庭に育った人なんだと思ったものです。 彼は東京帝国大学在学中でありながら昭和10年に伊東胡蝶園(のちのパピリオ)の宣伝部に入社し、広告デザインに携わりました(゜o゜;/。 昭和5年に手がけた化粧品広告には既に手書き文字で顧客に語りかけて、その後の「暮しの手帖」を誌面のキーともなった個性的なスタイルを確立させています。就職により生活の目途が立ち、彼は学生の身分を維持したまま結婚しました(゜o゜;。 1937年25歳で東京帝国大学を漸く卒業し、卒業論文の題目は、「社会学的美学の立場から見た衣粧」であった(「衣粧」は、「衣裳」と「化粧」を合成した言葉であり、花森による造語)4月には長女が誕生しました。 同年徴兵検査を受けて甲種合格となり、秋に赤紙が届き支那事変に応召したのでした。 大日本帝国陸軍に入隊後新兵教育を受け、北満州の部隊に配属されましたが1938年2月結核に冒されたため満州の陸軍病院に入院し、病状が良くならなかったため、幸運にも内地に戻され和歌山県の陸軍病院で療養生活を送りました。その後1940年に疾病を理由として除隊になった後に大政翼賛会において国策広告に関与することになったのです。 宿痾の病が幸運にも彼を戦争犠牲者から救ったのでした。 次回に続く…

雑誌広告の変遷 その1

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10年近く前好評を博したNHKの朝ドラ「とと姉さん」が再放送版としてお昼12時30分から放送されて居ます。 此の番組は再放送が熱望されて居たものですが、テレビドラマの場合は映画とは契約形態が異なって居て、重要な出演者に対して再放送には許可が必要なんだそうです(゜o゜;/。 元来、再放送と言うものは映画と異なって一々再放送される時代に相応しいものかの検証も必要なものだそうです。 出演者の存在は、撮影が終わってお金を貰ったから終了するものでもなく、再放送にも出演者の意向とかお金の問題が付き纏うややこしい世界のようですね🤬。 亡くなった役者さんなど居たりすれば、それは大変で再放送も難しいそうです(;;)。 そんなこんなで此れ迄朝ドラは時間的に見て居ませんでしたが、先月になって昼食後のひと刻に「とと姉さん」が再放送されて居るので楽しみに観ています^^。 此の作品は、9年も前に放映された2016年度前期放送のNHKテレビ放送第94作であり、平成28年4月から半年間放送されたNHKでのTVドラマです。 高畑充希が、 暮しの手帖社 創業者の 大橋鎭子 をモデルにした主人公小橋常子を演じて居ます。 ドラマの内容は、戦後になり広告会社の意に沿って、読者に不利益をもたらすことを避けて、広告不掲載を貫いた編集者花山(モデルは 花森安治 だがスカートははいていない)が常子の出版社に入社して雑誌「あなたの暮し」を発行します。 次回に続く。